細田守 『竜とそばかすの姫』感想

本投稿はネタバレを含みます。
作品を未鑑賞で読むのは推奨しません。
また、基本的に否定的な評価であることをあらかじめ記しておきます。肯定的なレビューを読みたい場合にはそぐわない内容です。
 
竜とそばかすの姫みた。細田監督の描きたい、まっすぐな人の良さとそこから盛大に漏れてしまう部分について賛否が分かれる内容だと思いました。個人的には結構強めの否。
私自身も若者ではありませんが、さすがに「おじさんが考えたハイパーリアルなインターネット観」にはモジモジさせられた。まてまてその持ち球だけで若者に説教するのはあぶなっかしい。風俗説教おじさんか。
多くの人が問題にしている「DV親のところに女子高生1人で行かせるのはいかがなものか」はあまり気になりませんでした。フィクションにリアル世界のルールを当てはめても面白くはなりません。リアルを勢いで突破するのがフィクションなので。
他方、バランスが悪いと感じるのは細田監督の善性に基づく腑分けです。
 
・ボーイミーツガールだけの時代は終わった
細田アニメの見どころとして「時として命を賭して利他的行動をすべし」の勇気を描く点があります。すずの母親役にナウシカ島本須美さんを配している点からもそうした継承を目指したのはわかります。利他的行動を美化したいのはわかった、わかったっつうの。
ボーイミーツガールにしてもそうです。ピュアな男女10代の恋愛を描くのは悪いことではありません。
でも、インクルーシブやアファーマティブの時代にはとても古臭く写ってしまいます。
劇中のリアルとして「高校生のヘテロ初恋」しか描かれないのはとても深刻です。10年前ならまだしも、2021年にカンヌで上映される映画として、1人のマイノリティも出さずにヘテロ恋愛だけが称揚されるアニメとは。椅子からズリ落ち。「高校生のウブな初恋」描写だけでニコニコしてもらえる時代はとうにおわっているので。
「多様性を題材にした映画じゃないからいいんだ」とはなりません。なぜなら「50億のなかからたった1人のDV被害者を助けだす」映画だからです。都合よく「50億分の1のDV被害者はみつかるけど、ほかのマイノリティは目に入らない」とやってしまえる問題意識の欠如。
そこにフォーカスできてないこと自体、世界の表現からは周回遅れです。
劇中に性的マイノリティや障がい者が1人出てくるだけでも印象は大きく変わったはずです。
主役のすず自身がひとり親家庭、竜はDV被害者。マイノリティといえる存在です。主役ペアはマイノリティ、というよりも「かわいそうな人」と設定しながら、市井の人にはマイノリティは不存在とするのはバランスを欠きます。
新海誠にしろ細田守にしろ、ヘテロ恋愛を称揚したいあまり他に目が向かないのはそろそろ指摘を受けるべきでしょう。
キャラクターの言動がリアルを超越する(警察児相すっ飛ばしてDV親と対峙する)のはいいです。でも、設定のリアリズムがガバガバなのは気になります。
ネット描写やマイノリティへの視座がとことん保守的。ガールミーツガールでもボーイミーツボーイでもいいはずなのです。男本位のボーイミーツガール/ガールミーツボーイはもうじゅうぶん描かれました。ヘテロ恋愛だけが描かれて、男が女と出会うのだけが美しい恋愛としてフィクションで再生産されるとき、マイノリティは存在を無視されます。それは平等に反します。インクルーシブ(包摂)を意識せず、それを自己弁護するのは、誰かの存在を無視することです。悪意がないからいい、というエクスキューズはもう通じません。ことさらカンヌ上映PRやインターネットを題材にして『世界』を意識するならなお。
なので、10年以上前の価値基準の青春映画を、いま、これからの未来として見せられるのはとてもつらかったです。
 
・U周りの設定の無理筋
劇中で描かれるUというインターネットサービスについて「50億のユニークアカウントがある」という設定の無茶。相当鑑賞の妨げになりました(YouTubeですら月間アクセス20億。LINEやFB、ツイッターの利用者は国内数千万人と言われています)。
世界全体に捜索の網を広げながら、ほとんどマイノリティと出会わない不自然さ。結果として国内で解決してしまうのもミステリの限界を感じます。せめて「50億アカウント」のところを「国内数千万人」とするだけで真実味が増します。
すずが幼少期に使っているスマホiPhone4sあたりという指摘があります。となると時代設定は2021年からプラマイ数年のはずです。サマーウォーズの2009年ころなら『U』のインターネット観は「夢の近未来」ですが、いまだにセカンドライフやオンラインゲームに準拠したかのようなネットイメージは無理があります。現代のネットはYouTube、インスタやTikTokのようにアバターを必要としません。空間ではなく、あるのはスワイプされるタイムラインです。あってもせいぜい手書きや加工写真のアイコン。
全身スキャンしてアカウントに反映する機能の部分でいうと、フェイスブックiPhoneで顔を反映したアバターは実用化されましたが、あまり普及していません。そのあたりの現実との齟齬はとても鑑賞の邪魔になりました。少なくとも「これから起こるネットの未来」としては受け止めづらい。テクノロジーに対するイメージが、これも10年前で止まっています。誰か教えてやって。
 
・ネット観の古臭さ、ネガティブイメージ
「安全地帯から匿名中傷する大衆」という紋切り型のイメージ。そういうものが今もあふれているのは事実ですが、肯定的なものに目を向けたいと監督はコメントしているのに、あまりにポジティブ面の描写が不足してる。『U』のなかで直接助けてくれるのはリアル身内とAIだけ。インターネット上の共助や善性を全く信じてないのがバレバレです。
なによりシラケたのはサービスの秩序を乱す行為に対して「アンベイル」=身元晒しが懲罰として機能している点です。それはバイトテロや炎上YoutuberをBANする場合でしょう。「歌ってみた」の子が、母親の命を賭した行動を重ねて慟哭するようなものなのかと言われるとそこまでではないだろうと思ってしまいます。理不尽なBANはたしかに起こり得ますが、アンベイルはユーザーの権利を無視した越権行為です。
晒しを恥と思うの非常に日本的感覚です。たとえばmetooやBLMのような社会運動において実名/匿名は問題にされません。マイナスのことをしていないすず/ベルなのに、なぜあそこまでアンベイルを恐怖するのか謎です。世界50億アカウントのSNSサービスという設定との食い合わせの悪さがここでも響きます。
ネット上に顔を晒すことがリスクになるのは確かです。すずがそれを恐れるのもわかる。でももし、本人の同意なく懲罰として顔を晒すとしたらそれは情報漏洩です。サービス提供者として致命的な瑕疵。そんなウェブサービスは世界のどこを探しても存在できません。
 
・本当にインターネットのポジティブな変化を信じているのか
監督インタビューをカンヌの公式サイトで読みました。「インターネットによる変化をポジティブなものと捉えディストピアとして描かないのは私(細田監督)くらい」だそうです。その自己認識もどうなんでしょうか。サマーウォーズにおける「OZ」も今回の「U」も大衆扇動ばかりで、まあまあのディストピアです。
インターネットという実体の捉えづらいものについて「ヤバいとこあるけどイイとこもあるよね」という中身のない批評は、何も言ってないのと同じです。
世界に目を向ければ、社会運動としてmetooやBLM、差別反対、労働問題などがイシューとして取り上げられています。その意思表示と表現のツールとして使われたのインターネットでありSNSです。Z世代は主張します。弱者の権利を擁護し寄り添います。そういう「ポジティブな変化」の実例とかけ離れたところに『竜とそばかすの姫』はあります。
細田監督はまず先に「インターネット空間」がありそこに人が集まるという考え方のようです。だいじなのは、ひとが何を考えて行動するかであって、道具はその補助でしかありません。「道具(ネット)スゲー、人間愚か」という主張(監督本人はポジティブに描いたと言いますが、作品は全くそうなっていません。これはだいぶ深刻なズレです。
結果として「ネット大衆は良きにつけ悪しきにつけ扇動されるだけ」という中身の薄いネット批判に終始したのはとても残念。そんなことは新聞やラジオの時代からのことです。ネット特有のことではない。
 
以上の通り、細田監督が思う「善なるもの」で構成した結果、まあまあの排他性を帯びてしまった『竜とそばかすの姫』。今後も細田守監督が作り続けていく上では凝り固まった先入観は早急にどうにかしなきゃいけないです。
なんかこう、是枝裕和と似た「善意による決めつけ」感があります。『そして父になる』の「田舎の大家族は貧乏でも幸せ、都会の核家族は金持ちでも不幸」と紋切りしてしまうヤバみと同等のを。
洗浄無菌化されたキレイなものと、かわいそうな同情の対象だけが存在を許される世界、相当にグロテスク。
 
・日本のアニメスタジオの性別や人種構成、どうなっていますか?
あとこれは細田監督のみの問題ではないんですが、「ピュアな美少女こと俺の分身はひとりで世界を変えられる」という展開はあまりに自己愛が強い。しかもその役割を「少女」に担わせる。宮崎駿からずっと日本アニメのトップクリエイターたちがほぼ漏れなく少女コンプレックスに囚われたままです。無意識の搾取がひどい。なんでこんなに女性監督やプロデューサーが少ないんでしょうね(色彩設計など各パートに女性がいるのはわかりますが、それすら役割のステレオタイプ。女性は色彩感覚に優れているから、とか? 意思決定において最終権限を持つのは誰か、ということです)。多様な立場の人がいなければ、多様な意見は集まりません。インターネットがどうのこうのいうまえに、目の前から変えていけることはたくさんあるのでは。
サマーウォーズから10年、もはやテム・レイ状態の細田監督にエールを送ります。
海外のネトフリ作品みろ、アップルミュージック世界ランキング聞いて。
 
おまけ
(バーチャル)アイドルのビジュアルイメージが『マクロスプラス』のシャロン・アップルから25年は経つのにほぼ変わってないのもツライ。ウィスパー系の声で芯があるボーカル=美少女の理想像を押しつけるのも今どきあり得ない。
ビリー・アイリッシュとオリヴィア・ロドリゴ、ブラックピンクくらいは聴いといてください。Vtuberや「うっせえわ」じゃなくて。

『スタントウーマン ハリウッドの知られざるヒーローたち』をみた。

 

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 原題 "Stantwomen the untold hollywood story" 。語られざるハリウッドの歴史、といったところか。邦題とは微妙にニュアンスが違う。ハリウッドの歴史は男によって語られてきた側面が強い。女性が居なかったわけではない。ただ、少なかった。

 きらびやかな衣装に身を包み、男の腕に抱かれてキスをする。それだけが女の役割か? 違う。それは「男がそうあってほしい女性像」だ。このドキュメンタリーは、実際に道を拓いてきたスタントウーマンたちの聞き取りによるものだ。女性の視点から見るハリウッドアクション、スタントの歴史は違った側面を教えてくれる。

 ドナ・キーガンは『トゥルー・ライズ』が思い出深いと語る。ジェイミー・リー・カーティスの代役を務めた。途絶えた道路の先は海、車の屋根からヘリに掴まって間一髪! という有名な場面。次の瞬間には足場だった車が海に沈む。ヘリから宙づりのまま見た景色が忘れられない。太陽を浴びて空を飛ぶ爽快さを、つい先ほどの出来事のように語る。

 本作で製作総指揮を務めるミシェル・ロドリゲスは『ワイルド・スピード』で代役を担当したデビー・エヴァンスの運転に魅了された。トレーラーの下をくぐるカースタントはデビーによるもの。「仕事を真に楽しんでいるのは、私(女優)ではなく彼女(スタント)だ」と思ったという。

ハリウッド草創期 盗まれた平等

 映画史研究家(名前確認できず)によれば「1910年代、ハリウッドでは女性が所有する会社も多く、移民も採用されていた。主演、監督も女性割合が1980年代より高い」そう。

 『ヘレン・ホームズの冒険(The Hazards of Helen)』は各話12分全119本の連続活劇で、当時としては世界最長と言われる。毎週新作が公開され、観客が足を運んだ。ヘレン・ホームズ(Helen Holmes)で検索すると動画が色々出てくるかも(権利関係が不明。リンクは貼らない)。バスター・キートンチャップリンのようなボディアクションを女性が命綱もなくやっていた。

 映画監督のポール・フェイグの説明はこうだ。西海岸でやっている映画という産業が儲かるらしいと聞きつけた商売人が、元いた女性や移民を追い出し乗っ取った。演者の役割は白人男性で固められ、女優は男たちの褒美としての役柄。のみならず、女優の階段落ちスタントは小柄な男性に。あるいは黒人俳優のスタントを白人が肌を塗って演じる、といった具合に。

チャーリーズ・エンジェルワンダーウーマン

 この状況に変化があらわれるのに、1960年代まで待たなければならない。『おしゃれスパイ危機連発(1967)』など、徐々に女性主役の映画が増えていく。70年代をむかえると男女同権運動とともにこうした作品が作られていくようになった。スタントにも女性が起用されるようになる。

 『ワンダーウーマン(TV 1975〜79)』でスタントを演じたジーニー・エッパーは象徴的だ。ガラス窓の天井を蹴破ってとび降りるスタント。ビルの窓から背面で飛び降りるスタント(逆回しでジャンプし侵入したように見せる)。彼女の仕事は人々を魅了した。

 ジュール・アン・ジョンソンは「アイロン台を飛び越えられるスタントを探している」という求人を聞きつけ、応募した。60年代からキャリアをスタートし『チャーリーズ・エンジェル(TV 1976〜81)』ではアクション監督を務めた。この2作は女性主役のシリーズとして、いまもリメイクが作られている。

 活躍が認められたのも束の間。ジュールは同僚男性のドラッグ使用を告発したことで逆にクビを言い渡され、裁判になってしまう。ジーニーはスタントウーマン協会会長を務めた5年間、ユニバーサル社から仕事を切られ、静かに干されたという。現場では波風立てずに黙って指示どおり過ごすことが要求された。

女なら大失敗、男は不問というミソジニー

 カースタントの名手、デビー・エヴァンスは言う。女はミスが許されないと。付け入る隙を与えるからだ。男はミスしても咎められることはないが、女には「これだから女には無理」と冷ややかな声が投げかけられる。

 デビーはスタント大会のカー部門1位、バイク部門2位の実力の持ち主。彼女は「成功のイメージ」をもてと語る。少しでも不安があればそれは事故につながる。不安の芽はリハーサル段階で全て詰んでおくようにと。

 男性ができないと断った場面を引き受けて成功させたこともある。デビーを知るロス・シャーフォーンいわく「男は若いうちに乱暴な運転を覚えがち。運転スタントは繊細な操作が求められる。男はその癖を直すところから教えないといけない」。女性スタントは、現場の要求以上にうまく魅せ、周囲の男を納得させるところからスタートさせなければならない。デビー・エヴァンスは現場で値踏みされることがあっても、実演で示し、多くの賞賛を得た。

 女性に課される条件はときに男性より過酷になる。例えばマーベルやDCのようなコミックヒーローもの。女性ヒーローは肌の露出面積が大きくヒールを履くデザインが多い。ハイヒールがバランスを取りづらいのは説明するまでもない。また薄着なぶん、プロテクターの面積も狭くなる。男性ヒーローがハイヒール、肌の露出が多い条件はあまり想定されないし、体重的にも無理だろう(重ければ足首の負担は大きくなる)。

映画業界にもある、呪いの言葉

 スタントは危険な職業だ。アザや擦過傷は日常茶飯事。『バック・トゥ・ザ・フューチャー2』ではスタントが柱に激突して大怪我をした。その映像が、そのまま劇中で使われている(訴訟にでもならない限り、まんま採用される例が他にもあるということ?)。

 人の怪我を見て喜んでいるのかとおもうとギョッとするが、同時にフィルムは彼らの命がけの、生き様の記録でもある。死に至ったケースにも触れられている。関係者が涙ながらに語る内容は痛々しいでは済まないものだ。

 性別に関係なく、撮影中の事故は起こりうる。にもかかわらず、女性スタントにだけ厳しい言葉が投げかけられる。それは映画業界特有のものではない。社会全体に蔓延したミソジニー(女性嫌悪)から発せられるものだ。

 1. 出産育児で家を空けられなくなったら仕事が来なくなる。

 2. 40過ぎたら仕事が来ない。

 3. 危険だから女性はやるべきでない。

 「女は◯◯だからできない」という先入観から語られる言葉に、根拠はまったくない。これらはすべて言葉の呪いでしかない。相手の動きや思考を縛る呪い。ひとつひとつ解いてみよう。

 1. 家事負担は誰かひとりではなく、パートナー、協力者、または介護医療サービスなど外部委託によって合理的に解決されます。

 2. 歳を重ねて仕事内容が変わるのは当たり前です。

 3. スタントの危険性は、性別によって変わることはありません。

 映画の中で、先輩の姿に憧れた女性たちが「自分もやりたい、できる」と目指したきっかけを口々に語っていた。あなたが望めば、自由に、何を職業にしてもいい。

 ジーニーは言う。「危険でもやる価値がある。成功の先に喝采が待っているから」と。

 『スタントウーマン ハリウッドの知られざるヒーローたち』はイオンシネマ、TOHOシネマズのほか全国ミニシアターで上映(2021年1月8日〜)。

 ※各発言は上映を見ながらとったメモからおこしたもの。そのため、ニュアンスの違い、間違いが含まれるかもしれない。ビデオリリース後に再確認したい。

stuntwomen-movie.com